iPX社員によるブログ

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グループの分け方とルール作成とのつなぎ

今回のブログ担当のベーカーです。

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フォルテ浜松(ウイキペディアから

2008年に僕は浜松市に住んでいました。その時にまだフォルテという駅前にあるでっかい建物がいました。11年前のある夏の日、僕は知り合いの誘いでフォルテでのワークショップを参加しに行きました。当日は分からなかったが、それは僕が最後にフォルテに入ることでした。数週間後、フォルテの解体が始まりました。

しかし、それと別の理由でそのワークショップが印象に残りました。


そのワークショップの始まりのゲームがこういう流れでした:

まずは6人組でテーブルに座る。そのテーブルには10個のアイテム(小物)が置いてあります。全員完全な無言で一人はそのアイテムを3つ以上のグループに分ける。分けたら、他のメンバーが何のグループに分けてあるかを当ててみる。当たったら次の人がそれと違うグループに分けてみる。

やり方が分かったら、今ここでトライしてみましょうか?以下のアイテムは何のグループができるでしょうか?
10個の小物

僕ならこの三つのグループが初めてピンときます:

  • グループ1:乾電池、フォーク、くし、トランプカード
  • グループ2:瓶、ケチャップの小袋、袋
  • グループ3:カセットテープ、SDカード、チョコエッグのキャプセル


それは何の意味があるのでしょうか?どうぞコメントに当ててみてください。それに自分の分け方も書いてください。

この簡単なゲームに実は意味が二つあります。
まずは相手の考え方を推測することで面白いです。本当に友人が知らない人より読みやすいかどうかが見えます。
後、人の価値観が見えます。特に(どれくらい自分の価値観とズレるか)。例えばCDがあったら、それは「プラスチックもの」のグループ、「回るもの」のグループ、「遊ぶもの」のグループのどれになりますか?隣に座っている方が同じグループを選ぶと思いますか?

人間にとって他人の考え方や価値観を一人ひとり考えることが難しいから「ステレオタイプ」というショートカットを使いがちです。つまり、共通点のある人々(特に「見た目」とか、分かりやすい共通点)が同じグループに入れて、同じグループの人々が一緒に扱えばよいという考え方。以前このブログで僕は「マイクロアグレッション」について書かせてもらいました、それはまさにこの考え方のショートカットから生まれると思えますね。

ステレオタイプのせいでは「私と違う種類(タイプ)から考え方など全部も違う」だけじゃなくて、「私と同じ種類(タイプ)から考え方など全部も同じ」という思い込みもあります。この思い込みによって行動や考え方に色々な興味深い(とちょっと恐ろしい)影響もあります。「自分に効いたやり方はきっと皆に効く」が一つの例です。

僕は前世(=20代のころ)ある私立学校に勤めていました。英語圏だから自分の授業など以外に周りの英語科の先生も支援する役目でした。日本では英語が義務教育で6年間以上教わります。でも、高校を卒業して英語でちゃんと会話できるのは1%よりずっと少なかったです(留学生や帰国子女は別ですけど)。これについて話しながら英語の先生に「教え方を変えてみてもっと会話をさせたらどう?」と提案したら、返事は「私はこのカリキュラムで話せるようになったから教え方は問題ない」。自分がその1%以下の一人だと全く認識なかったようでした。
(ちなみに、その後に別の先生とそっくりの話をしたらより良い返事が来ました:「話せるようになる卒業生が少ないのは当たり前、高校での英語の教育の目的はそれじゃないから。目的は大学入学試験を合格させることだけ。」それを聞いて、言語学好きな僕はちょっと悲しかったが、納得できました。)

じゃあ、ステレオタイプは悪いから一切使ってはいけないということですか?
それももちろん違います。まずは人間の脳には限界があります。現在社会に毎日会ったりしている数えきれないほど多くの人を皆一人ひとりステレオタイプ使わずに扱って生きようとするとは無理なことです。それと、「ステレオタイプはいつも当たらない」という逆の思い込みも大間違いです。人々の考え方や価値観は今までの人生での経験の重なりから生まれて、同じ文化に育てられた人は似たような経験もあって似たような考え方になる可能性は当然低くないです。(と、人間だから共通点があると当たり前のこともです。)

もう一つの学校からの例を出してみます。僕の昔の知り合い(というより、知り合いの知り合いですけど…)はイギリスでの数学の先生でした。ある日彼はテスト結果をクラスに返しているときに、皆の点数と合否を全員が聞こえるくらいの大声で読みました。彼がやろうとしていたのは合格率がどれくらい悪かったかを皆に認識させることでしたが、学年末に学校から首になったときにそれが原因の一つとして出されたと聞きました。なぜならイギリスでは、他人に恥ずかしい思い出をさせたりして他人の恥を利用することは「イジメ」と認められていますからです。「このクラスの○○%が不合格だった!」とか、人数を言っても何も問題はないですが、名前を付けることはアウトです。しかし、他の国に行ったらそういう考え方があると限らないです。

「褒めることはなるべくPublic、注意することはなるべくPrivate」という社会のルールで育てられた僕が初めて日本のテレビを見て驚きました。日本の学園生活のドラマやアニメでよく試験結果を印刷して皆が見える場所に貼ったりします。後は注意を受けるときはクラスの前に立って受けることでした。

よかったことに僕が日本で勤めていた学校はそんなことをやらなかったです。でも、日本社会でそれに準じるケースは偶に見てしまいます。会社で上司は皆の前で部下を叱ったり、注意や怒りのメールを送るときは会社全員CCであったりすることを見た僕が今にも納得しにくいからイライラします。(初めて全員CCの注意のメールに自分の名前を見たら僕が本気でカッと怒りました。)

これでますます複雑になりますね。ステレオタイプは人間が使わなければいけないのに、使うといずれに誰かに傷をつけてしまいます。こんな現実はどうすればいいでしょうか?

取り敢えずは「当たり前」という考え方を減らしましょう。一人の「当たり前なこと」は別の人の「あり得ないこと」です。次はこの前のマイクロアグレッションの記事に書いた通りにその考え方に「かもしれない」をつけましょう。特に「プラス方向」に付けた方がいいです:「できないかもしれない」よりは「できるかもしれない」や「私と違うかもしれない」よりは「私と一緒かもしれない」のように考えたら悪い思い出が減らせるのでしょう。

しかし、「かもしれない」に付けても、ステレオタイプはまだステレオタイプ、まだ自分の「勝手な判断」です。減らされても悪い思い出をさせてしまう可能性はまだ高すぎます。それは一人では解決できないと思います。こういう時はすべき行動が一人じゃなくて、皆として考えさせるべきだと思います。これで皆が一緒に考えたルールやガイドラインなどの決まりが皆を助けます。

「ルールを増やす」という話をすると恐れている人が多いと思います。ルールを増やせば自由度が減るのが怖いからです。僕は初めて日本の学校に努めることになったら、教頭先生がアドバイスとして「自分に結ばれてしまうルールを作ってはいけない」と言ってくれました。でも、悩んでいるときにやるべきことを教えてくれるガイドラインや思わずに他人に傷をさせない決まりがあったら自分も含めて皆を助けるルールもできます。

そういうルール/ガイドラインを考えるのは相当難しいですけど。でも作るときや施行するときに以下を考えましょう:

  1. 新しいルールを決めるとき、皆を自分のやり方に合わせようとするだけかを考えるべきです。例えば、毎日外でランチを食べている上司を「机で食べるのは禁止」というルールを作ったら自分にはほとんど影響がないですが、他の人が困ります。
  2. 自分の都合だけじゃなくて、自分の価値観や偏見に合わせているかを注意するべきです。例えば、「男性の女装や化粧品使用は禁止」というのは誰と為のルールになりますか?長い間に申込書には性別の記入欄がありましたが、最近MもFも当てはまらない人の為に「その他」を追加しているか質問自体をカットしていることが多いです。①のように「私たちは困っていないから問題ない」という考え方が危険です。
  3. 「現場の人に任せる」というセリフが立派なに見えるかもしれないですが、その人が持っているステレオタイプや思い込みなどにも任せているということになります。つまり①とそんなに変わらないです。それより、その人と一緒に考えようとかというスタンスととった方が良いじゃないでしょうか?
  4. ①と②を防ぐ為にルールは一人決めることじゃなくて、周りに相談しながらできれば多くの関係者を入れて皆で決めるべきです(特にマイノリティや自分と違う状況の人)。気を付けないといけないことは、一人じゃなくても、同じグループがいつもルールを作っているとそのグループだけの都合になりがちで、①や②と似た結果になってしまいます。(例えば、もし30代男性ばかりの委員会が「トイレ休憩は一日二回まで」と判断したらどうなると思いますか?)
  5. 自由度を守る為に、「こういうやり方じゃないといけない」というルールより、「こういうやり方に準じる行動をなるべきとりましょう」の書き方ができるときは、それの方に目指しましょう。
  6. 守りにくいルールはなかなかいいルールにならないですが、「守りやすい」からだけではいいルールにならないです。
  7. 各ルールには「魂」があって、それはそのルールはできた理由です(例:赤信号で道を渡ってはいけないは交通事故防止の為)。ルールを施行するときはルールの「文字」じゃなくて、「魂」を考えましょう。
  8. 魂だけじゃなくて、先週のブログ記事で紹介した「Just Culture」のように、ルールを施行するときに破った人の状況と事情を考えるべきです。実は、「例外のないルールは存在してない」ということは多分皆が既に分かっていると思います。「客向きスタッフはヒゲ禁止」というルールが多いと思いますが、シク教の人が入社したら、客に会わせないとか、無理ありに髭剃りをさせる人が滅多にいないと思いたいです。しかし、「その人がこのルールを守らなくてもいい」という判断はあくまでも一時的な解決だけです、いずれにだれかが「不公平」と叫んでしまいます。なので、あり得る例外を考えながらルールを書きましょう。イギリスの学校が昔は「首飾り禁止」というルールがありましたが、色んな主教にとってそれが守りにくかったから、僕が中学生になったときはもう「ネックレスをつけているときは制服の下に隠して、周りに見えないことにする」に変えました、それで主教の方が安心になったのに、皆が平等で不公平になりません。
  9. ルールはフィックスじゃない。「今までこうしてきました」は「これからこう行くべき」の理由になりません。状況が変わればルールなども一緒に変わらなければいけないです。
  10. ⑦~⑨に続けて、再発防止をやっているとともに、毎回ルール自体も見直してみることも良いです。例外ケースが多くあった場合か「文字」と「魂」がずれているように見える場合はルールの書き方を修正すべきかもしれないです。守れていない人が多いなら守りやすくするガイドラインなどを付けた方がいいかを考えたりします。再発防止以外のタイミングにも、こういう活動を定期的に実施するといいことだと思います。
  11. 最後には一番重要がこと:各ルールはちゃんと冷静で論理的に「何であるか」を説明できなければ、すぐ変えるべきです。なぜかというと、だれでも納得できる説明ができなければ上のどれかを守っていない可能性があります。

長いリストだけど、僕にとって書かれているのは「当たり前」なことが多いと思いたいです。でも、上に書いた通り、僕の「当たり前」があなたの「あり得ない」かもしれないです。そうでしたら、コメントに書いてください(それで、僕が上達できます)。



ちなみに、僕のグループ分けがこうでした:グループ1は何かに入れるもの、グループ2は何かが入るもの、グループ3は入ったり入れたり両方同時にできるもの。